米国での留学先はコロンビア大学のロースクールでした。あちらのロースクールは教員として実務家が来たりしていますから、日本よりは実務に近いことが学べます。ロースクールを修了すると今度は、実際にビジネスの現場を体験したくてニューヨークの法律事務所に所属することにしました。この事務所には1983年から1984年までいました。しかしあくまでも法律事務所ですから、なかなか現場まで入り込むチャンスはありませんでした。
この法律事務所に勤めてわかったのですが、顧客として米国企業と日本企業とでは明らかに取り扱いに差がありました。米国の弁護士にとって一流の顧客というのは、やはり米国の一流企業なわけです。いくら日本で一流の企業であっても、米国の弁護士にとってはファーストランクにはならない。
しかし、日本の企業というのはお金の払いは良いですから、良いお客様であることに間違いはないのです。ところがリスペクト(尊敬)はされていないのです。米国で生活していると、日本の会社の商品を買ったりサービスを受けたりすることは常識になっています。それでも扱いは違う。「なるほど、日本はこういうあしらいを受けているのか」と思いましたね。
米国の金融マーケットは規制が厳しいために、米国の中だけで完結しているという面があります。一方、ユーロ市場はロンドンを中心に動いていまして、こちらはより自由な活動ができる市場であるため、日本の企業も積極的に活用していました。次はそちらを見ておこうと思い、ロンドンに渡ることにしました。
ロンドンでは法律事務所ではなく、実際の企業の中に入って仕事をしたいと思っていましたから「受け入れてくれる企業を探してほしい」というアプリケーション(申請書)をせっせと書いては、いろいろな会社に送っていました。しかしこれといったコネクションがないものですから、色よい返事は帰ってきませんでした。ブリティッシュ・バンカー・アソシエーションから、「探したけれど見つかりませんでした」という丁寧な返事をいただいたこともあります。書類ベースではらちがあかないので、ロンドンに進出している日系の企業にお願いしてロンドンの法律事務所を紹介してもらい、そこに所属することになりました。
ロンドンでも日本企業は、やはり米国と同じ扱い方をされていました。金払いは良いけれどもリスペクトされていないと。なぜ日本人や日本企業がリスペクトされないのかというと、一つは「やっていることが同じようなことばかりで個性がない」ということ。もう一つは、日本人が現地のビジネスコミュニティに積極的に入っていかないということが挙げられると思います。
たとえば、ビジネス上のつきあいでランチを一緒にするというのは、日本企業の人たちもごく普通にやってはいるわけです。しかし夜のプライベートな世界で日本人がもっとつっこんだつきあいをしているかというと、それはしていないのです。夜になると日本人は身内同士の付き合いだけになりがちで、ビジネス関係の人たちと胸襟を開いて付き合うことをしていません。しかし、実はそういう世界に入らないと現地の本当の話というのは聞こえてこないのです。
だから、たとえば現地でシンジケートを組むような大きな取引の場合にも、現地のハウスがまず声をかけるのは日系企業ではありませんでした。おいしい仕事は、まず友達関係に連絡する。それで売れ残ったところを振ってくるという順序になってしまうのですね。
当時、1980年代の日本の金融取引というのは、まだ規制が厳しかったので、完全に型にはまったものでしかありませんでした。ただボリュームだけはすごく大きかったですね。日本の株価はどんどん上がっていましたから、株式に関する仕事、たとえば転換社債とかワラント債などを日本の企業が海外で発行する。しかし基本的には同じパターンの商品で、何の工夫もない。ロンドンでそれを引き受けている側は手数料がどんどん貯まっていくわけです。ロンドンには日本人向けのナイトクラブができて、夜そこへ行くと日本の証券会社の人たちが、あちらこちらで景気よく飲んでいる光景をよく見たものです。
ロンドンの法律事務所で1年間勤めた後、同じく英国にある東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)の現地法人で働くことになりました。取引相手は北欧やイタリア、ハンガリーなどヨーロッパ各国の国や企業です。そういった顧客に日本からのお金を出していくというビジネスに関わりました。
この東京銀行に勤務したことで、ようやく念願のビジネスの現場に立ち会うことができました。スワップ取引とか貸倒処理のような金融機関のビジネスというもの、六法全書に載っているような法律の言葉ではなく、ビジネスの実践的なターム(用語・述語)というもの、また日本の企業組織について学ぶことができたのです。
たとえば"金利"という言葉ひとつとっても、当時の私にとっては預金通帳で認識するぐらいでした。しかし実際の銀行の金利計算というのは、ディールを見ながら「これとこれを金利交換します」という具合に計算しているわけです。そうしたことも実地で接することが、後になって大いに役立ちました。